扣の中に小川善平さんの名も
 見うけられます。
 下記にリンクを張りました。

                              
  登録有形文化財 小川家住宅

  田中 秀五郎


 
 
















光野 郁雄
 昭和13年
 1月10日入営

 昭和12年10月17日出征と
 記されていますが、
 おそらく宇都宮第14師団で
 編成されたのではないかと
 思われます。


 編成後列車にて隊が移送される
 時に外部からはわからないよう
 窓には目隠しが施されていたため


 喜代三本人の機転で列車が
 間々田駅(?)を通過する際に
 窓から名刺をばら撒き、
 今通過した列車に乗っていたのだと
 見送りに来た人へ知らしめす
 行動をとったそうです。
                ふで談



 

 上記資料を撮影した後に果たして
 この二つが表裏同一のもので
 あったかどうか?、失念してしまい
 正確さを欠きますが、同じもので
 あるとすると喜代三さんが昭和2年に
 徴兵されていたということになり、
 それならば何の招集であったのか、
 疑問が残ります。
 日付は昭和2年12月9日と
 記されています、当初は安兵衛さん
 自身のものかと思っていましたが
 年齢的に考えても六十になるような
 状況から考えにくく、喜代三さんで
 あるなら二十二歳で十分に辻褄が
 合う事になります。
 この頃の戦況といえば南京事件や
 山東出兵を経て満州事変へと
 つながっていく背景があります。
 軍事郵便の資料や支那事変の
 従軍記章画像等から窺える喜代三、
 外地出征は明白ですが、この昭和初期の
 餞別帳から読み解ける状況がいま一つ
 情報不足である上、既に当事者から
 聞くことかなわず、残念乍ら検証困難
 となっております。
 更に安兵衛さんの日露戦争当時の関係
 資料が下生井の櫻源寺(ろうげんじ)
 凱旋記念塔に記録として残されている
 ようなので折りに触れて詳細を
 明らかにしていきたいと思っています。
 以上、一連の資料は生井の実家に
 保管されているものからの
 抜粋となります。


   











 こんなたすきが
 つづらの奥に
 とってありました。
 何本か作った
 残りのものだったのでしょう。

追記
 追記資料  凱旋記念塔  

 
 龍慶山 櫻源寺   下生井



 凱旋記念塔

 正面に 凱旋記念塔
 明治三十九年一月十日
 海軍大将 東郷平八郎 記
 と印され、向かって左側に
 出征軍人の名が刻まれており、
 その中に光野安兵衛さんの
 名前があります。右側には
 建立に携わったと思われる
 組織名、生井報國義會 
 という文字が記されています。
 忠義の臣とでも言うべき
 団体があったのでしょう。         




 日露戦争 出征軍人

 光野 安兵衛