この軍事郵便は昭和13年から17年までの
 いずれかの年、6月5日に戦地から
 投函されたものと推察できます。
                現在検証中

 読み取れる部分のみ文字起こしを
 してみました。


 文面から察するに、本国に戻れる日も

 遠くはないという含みが見て取れます。

 

 銃後の守りとはいえ当時の軍事機密、

 戦況等は何一つ知らしむべからずで

 わかるはずもなく、ひたすら無事で

 帰って来てくれる事を願っていた

 様子が 想像できます。


 

 ネット上で当時の関連記事を探していたところ

 昭和十七年、同飯塚部隊から本国宛ての書簡で、

 東京市世田谷区へ投函した文献が富山の

 市立図書館に非公開で保存されておりました。


 

 この部隊は何人編成かはわかりませんが、

 おそらく喜代三本人と面識のある方のもので

 あろうと思われます。



 これほどまでに長期間、広範囲にわたる膨大な

 資料の中で、身近な情報に めぐりあえるとは

 思いませんでした。


 追記

 その後の検証によって辻褄合わせをした上、

 明らかになった事ですが

 

 このはがきは昭和17年6月5日に

 出されたものであると判明しました。

 

 兄の祐一が亡くなった後、戦地へ

 慰問の手紙を出していることが、

 節子さん本人より確認が取れました。

 

 

 また偵吉さんの体調が悪かった旨、

 当時胆石を患っていたと、ふでさんからも

 聞き及んでいましたので

 併せて明確になりました。


 

 奇しくも、6月5日と言えば

 あのミッドウェー海戦の日です。

 日本軍は南方攻略に快進撃を

 重ねていましたがこの戦いで

 


 海軍は空母4隻、航空機200余機

 を失い戦局の大転換点となった

 歴史的な日でもあります。

 

 

 検閲済の判が押され、差し障りのない

 文しか書けない一枚のはがきの裏に

 これから来る日本の壮絶な未来が

 待ち受けていた訳ですね。





  角谷 暁巳 (かくたに あけみ)
 

   小松林蔵 スミ さんの娘さんです
   昭和16年生


   平成22年4月16日

   この日初めてお目にかかりました。
 

  松本估吉氏葬儀の際に

          (於 高円寺 平安祭典)

     

          撮影 提供 光野浩次
 

   追記

    令和5年4月13日

    お亡くなりになりました
              享年84歳




  小松 ツネ

 

  明治28年2月13日~

   昭和50年1月13日 出直


  喜代三さんとはしょっちゅう口喧嘩をしては

  大騒ぎになったかと思うと、次の瞬間には

  もう大笑いをしていると言った仲の姉さん

  だったと聞いております。                   ふで談



  幼少の頃は母親のおシズさん(明治八年生)
  の体調があまり優れなかった為、
  主に祖母のおミツさん(安政三年生)が
  ツネさんの面倒を見てくれていたようです。


 小松 静枝       小松 美江

  大正11年生         大正13年生

        

         写真提供  小松 健二




          小松節子

     二宮秀子      高円寺



  同じく高円寺

   玄関の木戸を入ると、たしか右側に

   垣根があってかたつむりを見つけては

   喜んでいたのを憶えています。

          二宮 弥一

         二宮 秀子

        二宮 和夫



  小谷 しげ          


   ふでさんの導きの親

   こちらの家から嫁入り支度をして頂いて

   喜代三さんの元へ嫁いだそうです。


    昭和45年8月5日に

    お亡くなりになられました。

             

           お墓は小平霊園内に。